元町公園と井下清
英語版「Motomachi Koen」の翻訳版です。

元町公園の保存にあなたの力を! 1923年の関東大震災を記念する公園です。

                                
                       
公園とその危機

元町公園は都心の神田川を見下ろす緑濃い、素敵な公園です。過密な住宅地に住む近隣住
民には憩いの場であり、東京の都市計画史上、記念碑的存在ですが、その公園が地元の役
所が企画した建設計画によって危機にさらされています。

文京区本郷1丁目にある元町公園は約10万人の死者をだした関東大震災の教訓をもとに、
1930年開園しました。震災の死者の大半は火災による死亡ですが、樹木の多い庭園や
丘に逃げ込んだ人たちは大木に守られて生き延びました。

東京市はその大規模は震災復興計画の一環として、52の震災復興小公園を作りました。
明確な近代的都市計画によるこれらの公園は鉄筋コンクリート造りの小学校とペアになっ
ていて、通常時には公園は学校の運動場兼近隣住民の憩いの場であり、緊急時には公園の
広い空間と防火構造の学校の建物共々、避難場所となる狙いです。

元町公園は52の小公園のうち、今なお原型をよくとどめている唯一の例で、他はすべて
戦後の再開発で激変したり消滅してしまいました。面積はたった0.35ヘクタールです
が、傾斜地をうまく利用して、リズミカルな階段、盲アーケードの壁、藤棚、砂場、すべ
り台が備わり、80年前の東京では大変モダンな造園です。敷地の40%には多様な木々
が植えられ、三方は常緑や落葉の大樹でかこまれ、残る北面は、今は金網でさえぎられて
いますが、学校と地続きです。

機能的で美的センスにすぐれ、素晴らしい空間感覚をかもしだす造園は、景観設計者や都
市計画者に高く評価されており、1985年に文京区が修復工事をした際、当時の区は公
園の文化財としての価値を認識して、十分な時間と費用をかけて最善の復元と保存につと
めました。

公園の立地は昔から富士山を遠望する視界の開けた場所であり、近年の高層ビルで眺めは
さえぎられてしまいましたが、広重の江戸名所百景中の「水道橋、駿河台」は元町公園か
らの展望です。(ページの最後参照)

元町公園を作ったのは東京市の景観設計・園芸技師の井下清です。彼は東京の緑化に職業
上の人生を捧げたひとで、彼の名は井の頭公園、安田庭園、清澄庭園、六義園、小石川後
楽園など都内の主要庭園の保存維持に関してしばしば言及され、多磨霊園の創設者でもあ
り、また都の街路樹の植栽も推進しました。

                               

元東京都公園緑地部長で日本造園学会名誉会員の樋渡達也氏の記憶によれば、井下氏
は情熱的で実務の才にたけた人でした。樋渡氏が駆け出しの景観設計者として都庁に
入省した時、井下氏は既に退職していましたが、公園、景観設計関係の諸団体の長として
都の都市計画に大きな影響力を持っておられ、若い役人たちの指導者として尊敬されて、
ご自身の哲学や経験を彼らに話されるのを楽しみにされていました。

樋渡氏がとりわけ深く印象に残っているのは1923年の関東大震災の日の経験話です。
その日の午前、井下氏は公園課長として安田財閥の創始者の安田善次郎氏と当時丸の内に
あった市役所で会合することになっていました。安田氏所有の、今は安田庭園として知ら
れている伝統的庭園の譲渡についての会合は順調に終わり、正午前、ちょうど昼ごはんを
どこで食べてからその庭園を検分にいこうか、と考えているときに、あの恐ろしい地震が
発生しました。

井下氏は直ちに部下を公園課の管理下にある庭園や広場の検証に行くよう指示し、彼自身
は両国へと急ぐ道すがら、パニック状態の避難民が続々と陸軍被服廠の跡地をめざしてい
くのを目撃しました。6ヘクタールのこの広大な土地は前年に東京市に売却され、軍服製
造工場が撤去した後はがらんとした空き地となっており、だれの目にも地震のあと発生し
た火災からの逃避先としてちょうどよいと思われました。避難民で庭園や空き地が一杯に
なっていくのを見た井下氏は次の現場の視察へといそぎました。

2,3時間後に再び戻った彼は猛火をあびた被服廠跡地を目のあたりにして、絶句しまし
た。午後4時ごろ、ファイアストームが避難民でぎっしりのこの場所を襲い、居合わせた
ほとんど全ての人をあっという間に焼き尽くしてしまったのです。あまりの焦火地獄のた
め、死者の正確な数は不明ですが、約3万8千人の命がこの一つの現場で失われたとされ
ています。

一方、約2キロ南の清澄公園へ逃げ込んだ約1万人は、茂った樹木が黒こげになりながら
も人々を守ったため、生き延びたのです。

山のような死者と瓦礫の処理は公園課の責任事項であったため、井下氏と部下達は嘆く暇
とてなく、その遂行をいそがねばなりませんでした。死体はその場で焼却するほか手段は
なく、その恐るべき任務を黙々とやりとげたのです。

この戦慄すべき経験が井下氏をして東京の再建にあたり、これまで以上に緑の緩衝帯を都
内外に広く確保する努力に駆り立てました。また、市内各地に計画的に近隣公園を配置す
るアイデアを思いつくことにもなりました。

                   

西洋諸国で言う「公園」は日本では明治維新後導入された新しいコンセプトで、維新前は
都市住民にとって自然に触れる場所といえば、社寺の庭や杜でした。1873年の太政官
令による東京の最初の公園5か所のうち4か所は上野寛永寺、浅草観音、芝増上寺、富岡
八幡と寺社地であり、5番目の飛鳥山は花見や紅葉の名所でした。日比谷公園が近代的公
園として1903年にオープンするにはさらに30年が経過しなければなりませんでした。
ついでながら、井下氏が東京市で職業人生の第一歩をふみだしたのは、日比谷公園の開園
祝の日で、最初の仕事は祝賀行事の軍楽隊に挨拶することでした。

20世紀初頭、東京の緑化につくした先駆者には日比谷公園を設計した本多静六博士、明
治神宮庭園の植樹を担当した原煕氏等がおられます。

井下清氏はこれら先達の先駆的業績を引き継いで、東京の公園と緑地行政の基礎をかため
られたのです。元町公園は、この東京の緑の大恩人が1920年代から 30年代にかけて抱い
た構想を今なお生き生きと伝える、唯一の例なのです。

元町公園を取り巻く問題

今、文京区はこの公園を破壊しようとしています。煙山区政による提案では、共同事業者
と共に井下氏の設計をつぶし、50本余の高中木を切り倒して、推定12乃至14階の高層ビ
ルを新築することになっています。元町小学校も取り壊し、跡地に新しい公園を埋め合わ
せにつくるということです。元町小学校は1998年に閉校となり、耐震構造の保障付き
で民間の学校に賃貸となっています。提案されている新公園は高層ビルの陰で、以前のよ
うな南面の崖地からの光やそよ風は望めず、大気汚染やヒートアイランドを緩和する役割
を果たしていた大樹もなくなります。

この建設計画は、煙山区政が推進する一連の公共の学校、図書館、体育館の移転、建て替
え計画の一環として発生しました。確かにそれらは大切な計画なのかもしれませんが、そ
のために元町公園を犠牲にするのは、東京の遺産と井下氏の公園、公共スペース重視方針
を踏みにじることを意味します。

元町公園を守ろう

 2006年9月1日、元町公園で保存派の市民、景観設計者、都市計画者など、約80人が
4時間の決起集会を開きました。樋渡氏や数人のスピーカーが井下氏の地味だが重要
な業績について講演し、その他のイベントもありました。11時58分、そぼ降る雨のな
か一同立って、関東大震災の犠牲者のため1分間の黙祷をささげました。

参加諸団体や個人は, 公園がすべての人々に必要、不可欠な価値をもつとは認識せず、単
なる空き地としか考えない政治的権力と対決して、全東京的運動を展開しています。煙山
区長あての要望書をつぎつぎと提出して、元町公園と元町小学校の保存と活用を訴えまし
た。日本内外の公園保存派団体や市民と情報を共有しつつ、声をあげて、都市の諸問題を
解決するとの理由で公園体系をめちゃめちゃにするな、文京区は区立学校の問題解決のた
めだとして、東京の歴史文化遺産である元町公園を勝手に処分するな、と呼びかけていま
す。元町公園は東京のクォリティ・オブ・ライフの維持、向上に絶対必要なのです。


                                           写真・史料提供:小野良平氏 
転載等はご遠慮ください。 



廣重画「駿河台 水道橋」

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